愛についての神聖な二分法

愛についての神聖な二分法

こんにちは!
幸せ実践塾塾長の赤木あつしです。

「神との対話3」の一部を引用しながら
内容を解説するシリーズ。

今回は第1章の3回目になります。

前回、愛の物差しとして、
自分のためには何も望まず、
相手の望みが実現するよう願う
という基準を神は示しました。

しかしここでニール氏は、
それでは前に言ったことと矛盾する
と指摘します。

「愛とは相手が何者であり、何をし、
何をもっているかとは関係ない。
自分が何者であり、何をし、
何をもっているかだけが大切だ、
とおっしゃった。」
(p.24)

たしかに、1冊目で神はそう言っています。

相手がどうかなど関係ないなら、
相手の望みが叶うよう願うというのは
矛盾するというわけですね。

さらにニール氏は、
こういう質問もしています。

子どもが道路で遊んでいたら、
叱って連れ戻す親の気持ちや行為は
愛ではないのだろうか?

子どもの望みは、道路で遊ぶことです。

その望みが叶うよう願うこと、
つまり道路で遊ばせることが
愛だということになるのではないかと。

たしかに、
このニール氏の疑問は的を射ています。

しかし神は、
それでも矛盾はないと言います。

「矛盾などないさ。
だが、あなたには調和が見えない。
それに、
愛についての神聖な二分法を理解するには、
わたしのための最高の選択は
あなたのための最高の選択だ、
ということを理解しなければならない。
この二つが同じなのは、
あなたとわたしが「ひとつ」だからだ。」
(p.25)

こうまずは一般論を語ります。

相手にとって最高の選択と、
自分にとっての最高の選択は
矛盾しない、つまり一致する
と神は言っています。

なぜなら、存在するのは
「ひとつのもの」だけだからと。

「一見矛盾する二つの真実が、
同じ場所、同じ時に共存するという経験、
それが人生だ。
この場合、一見矛盾に見える真実とは、
あなたとわたしがべつべつで、
「ひとつ」だということだ。
この矛盾に見える真実は、
あなたと他者との関係すべてにあてはまる。」
(p.25)

「神聖な二分法」とは、
別々であり、同時にひとつだ
ということです。

この前提を忘れていると、
矛盾に見えることの中に調和を見る
ということができないのです。

そこで神は、
ニール氏の質問に具体的に答えます。

まず、人間関係で犯す最大の過ちは、
相手が何を望んでいるかなど、
相手のことを心配することです。

本当は相手のことではなく、
自分のことを考えるべきなのだと。

そして、
1冊目では別のことを言ったと指摘します。

「他者など存在しない、と気づけば、
自分にとっての最高の選択が
相手にとっても最高の選択になる。
したがって、過ちは
自分にとっての最善を選ぶことではなく、
何が最善かわからないことだ。
それがわからないのは、
自分が何者でありたいのか、
ましてほんとうの自分は何者なのかが
わからないためだ。」
(p.25)

ニール氏は、
この神の回答に「理解できない」と言います。

そこで神は、
このことを具体的に説明します。

たとえば、レースで勝ちたいのなら、
時速150マイルで飛ばすのが最善だが、
近所に買物へ行くなら最善ではない
ということです。

時と場合によるということですね。

「何が「最善」かは、あなたが何者で、
何者になりたいかによって異なる。
自分が何者か見きわめるまでは、
何が最善か決められない。」
(p.26)

まだ抽象的な感じがするかもしれませんが、
理屈は何となくわかると思います。

自分が何で、どうなろうとしているのか、
それがわからなければ
その自分にとって何が最善かは
決めることができません。

この話はまだ続くので、
ここまでで私の理解をシェアします。

相手が何者で、
何を望んでいるかなどを心配するのは、
「他人はいない」という事実を
忘れているからですね。

存在もしない他人に依存しているのです。

ですから神は、
他人がどうかではなく、
自分がどうかを考えよと言うのです。

しかし一方で、
自分の望みを押し付けず
他人の望みを叶えることを願うのが愛だ
と言っています。

自分の望みを押し付けないのは、
押しつける必要がないからです。

なぜなら、他人がどうしようと、
自分が困ることにはならないから。

他人というものは存在しないのですから、
存在しない他人に依存するのは
おかしなことですよね?

そして他人に依存しないのであれば、
他人がどうしようと知ったこっちゃない
ということになります。

では、子どもが道路で遊んでいたら、
どうするのが愛でしょうか?

これは後で神の答えがありますが、
正確には覚えていないので、
ここでは私の答えを書きますね。

肉体を持った私たちとしては、
この肉体を守ることも重要なことです。

したがってその観点からは、
子どもの望みに反するとしても
私は子どもを守ろうとするでしょう。

しかし、魂という観点からすると、
それもどうでもいい話です。

なぜなら、死ぬことはないから。

したがって、
この肉体の死よりも重要だと思えば、
子どもを守らないという選択もありです。

そう考えれば、
仮に子どもを守らないという人がいても、
その人の意見を尊重できます。

その人に、
子どもの命を守るべきと
自分の意見を押しつける必要もありません。

結局、どういう答を出したとしても、
それはそれでOKなのだと思います。

それは、
今の自分がどういう自分かということや、
どういう自分になりたいのかによって
結論は変わってくるからです。

そして、
どの選択肢も間違ってはいません。

ただ、それが
自分を基準にしたものなら良いのですが、
他人を基準にしたものだと
翻弄されるだけなのです。

だから、自分を基準にせよ
と神は言っているのです。

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赤木篤 (あかき・あつし)


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